鵜の木情報 東京高等学校

oyaji1412007-09-14

 東京高校(その2)
 関東大震災の後、学校再建の話が持ち上がったが、上野清
死去したことで話は中断した。昭和8年目黒蒲田鉄道の沿線に良
い土地があるという話があり、理事など数人で実地検分したとこ
ろ、誠に学校を建設するには適地であるとの判断が下る。
 その土地の所有者は嶺鵜耕地整理組合であった。当時組合は
資金不足で耕地整理を中断していた。組合長の長久保豊氏と交渉
の結果、坪7円50銭で5千坪購入する契約を結んだ。それが現
在の校地である。丹沢山系を望み、清き多摩川の清流に接する自
然環境に恵まれた立地はまたとないもので、現在に至っている。
駅からの道路は土手で行き止まりで車の交通の心配がない、こう
した理想的な土地に目を付けた先輩たちの慧眼に感服するほかは
ない。
 戦後、昭和20年8月2代校長上野繁公職追放になり、清の
3男堀越三郎が校長に就任する。
 昭和23年4月学制の変更で旧制の東京中学校は東都高等学校
となり、蒲田の東京実業学校は東京実業高等学校となった。
 昭和27年11月創立80周年を向かえ盛大な祝賀会が行われ、
学校は次第に活況を取り戻していった。
時代は昭和から平成へと移りベビイーブームが去り、学校の経営
は必ずしも順風満帆な時ばかりではなかった。
 昭和55年「個性の伸長と能力の開発」を掲げ、教育内容の充
実を目指した。昭和58年創立110周年を機に制服を新たに制
定した。
こうしたソフト・ハードの充実のより昭和60年より入学志望者
が激増した。
 平成3年には女子の入学生が半数を超え、男女共学が定着した。 
平成4年創立120周年が華々しく行われた。
 その間スポーツでは都の高校総体総合優勝、ラグビー部の花園
出場など輝かしい戦跡がある。
 現在学校を訪れると玄関脇に多くの幟に各種の戦跡が誇らしげ
にはためいている。
鵜の木の駅から東京高校に通ずる商店街の通には時々大きな大会
の横断幕が掲げられ地元民の大きな励みになっている。

            東京高校記念誌より抜粋 文中敬称略