鵜の木情報 光明寺

 
大田区鵜の木1丁目23番地に、大金山宝幢院光明寺という名刹がある。
昔の中門といわれる山門を入ると大きな松の大木に囲まれた境内に入る。
正面には本堂、その横には阿弥陀堂がある。左横には少し前に立てられた
法然上人幼少の像がある。
光明寺は、天平年間(七二九〜七四九)に行基が開創し、真言宗空海
再興したと伝えられている。

真言宗当時は、七堂伽藍を有し寺領も広大で、東の高野山と称された。
第二国道にある池上警察署あたりから池上線千鳥町を通り越し、環八脇に
ある藤森稲荷神社辺りにあった大門まで参道が続いていた。
空海がこの寺に住んでいたころ、未だ仏法を信じない農民たちは托鉢姿の
を杵を持って追い払おうとしたが、その杵が脛に着いて離れなくなった。
空海は謝る農民を許し、その杵で地蔵尊を刻み村人の難儀を救ったと言い
伝えられている。
一二二九年、法然の弟子で西山派の祖、善恵上人が、光明寺を浄土宗とし
て再興した。
本堂裏にある体空法印供養碑は、寛政六年(一七九四)に横穴式古墳が発
見された時に建てられたもの。
最近も弥生時代の竪穴式住居あとや、横穴式古墳が発見されている。また、
古いものでは七百年前の板碑も二百枚近く出土している。

本堂右手に墓地があるが、その年号を見ると歴史の重さを感じる。このあ
たりは環八の開通の伴い、寺領を少し削られた。そのことを機に発掘作業
も行われた。鐘楼のそばに盛り土をしたような小高い小山があるが荒塚と
呼ばれ、新田義興を謀殺した江戸近江守墓である。
当寺本堂に安置されていた十一面観音像は義興の怨念が雷火となり民家を
焼き払ったとき、この仏像を祈念したところ火が治まったことから、雷留
観音と呼ばれている。

二十八代住職の清閑上人が石田三成の子息であったため、石田の残党が頼っ
て留まり、将軍家はこれを嫌い寺領を削るなど数々の迫害を受けた。
後に徳川との関係も改善され、千姫の葬儀をした玄誉上人が、三十五代住
職になったので千姫の位牌が光明寺に置かれている。また、五代将軍綱吉
のお守役、桂昌院の位牌も置かれているそうだ。

このように見てくると、この寺の歴史的意義や変遷が時代の流れの中で燦然
と輝きを放っている。

現在、本堂裏に大理石や玉石でデザインされた石庭の中に二層の仏塔が新た
に建立され、中にお釈迦さまが安置されている。実に気高い仏像である。
また、鐘楼や墓地も移転に伴い新しく整理され整然としている。

もし、参詣されるなら寺務所に了解を取ることをお勧めする。未だ部分的に
工事が残っているのか仮囲いのところがあり無断ではいることを拒んでいる。


参考資料 地域情報誌・大田区教育委員会資料等